今回のテーマは「マインドのコントロール」でした。
マインドをコントロールし、道具として扱うこと(マインドに使われるのではなく)が本当の自由である、といったことなどが語られています。
僕はADHD的な過集中と拡散思考の傾向があり、気づいたらマインドをコントロールするどころか引きずり回されてボロボロになっていることがよくあるのですが、
これはやばいな、というときはジャパ瞑想(マントラの繰り返し)をすると、マインドが落ち着き、正しく方向づけやすくなります。
ジャパ瞑想では神様の名前を繰り返し唱えて没入していくので、「自分が自分が」という感覚が薄れてマインドが落ち着き、コントロールしやすくなっている感覚があります。
ナイフでもスマホでもパソコンでもお金でも何でも、どのような目的を持って、どう使うか、というエネルギーの方向づけが大事だと思いますが、
そのエネルギーの方向づけを行っているのもマインドなので、そのコントロールは最優先事項だなと。
バガヴァッド・ギーターでもマインドのコントロールについて、様々なところで触れられています。
2章60〜61節
アルジュナよ、荒れ狂った感覚は、感覚を制御しようと努力し続けている賢者のマインドでさえ、無理やりさらっていく。
すべての感覚を制御し、私を至高の目的と定め、瞑想状態の中にとどまるべきである。自らの感覚を制御した者の英知は、しっかりと確立している。
荒れ狂った感覚は賢者のマインドさえさらっていくなら、一般人の僕は瞑想しないとさらわれぱなしですな。
6章5〜6節
あなたは、自らのマインドを用いて自分を高めるべきであり、堕落することを許してはならない。なぜなら、制御されたマインドは、あなたの友である一方、制御されていないマインドは、あなたの敵だから。
それを支配した者にとって、マインドは友である。しかし、マインドを制御できない者にとって、マインドは、最悪の敵となる。
マインドをコントロールできたら友になって、コントロールできないと最悪の敵になるなら、友になった方がいいですよね、わざわざ最悪の敵を作りたくないし。
8章8〜9節
アルジュナよ、他のことを考えず、マインドを専心させて、たえまなくヨーガに励んでいれば、あなたは、神聖な至高の存在に到達する。
あなたは、全知の至高の人格を瞑想するべきである。その存在は、最古のもので、あらゆるものの至高の支配者である。その姿は、原子よりも精妙で、想像が及ばないが、あらゆるものを維持している。そして、太陽のように輝いて、すべての暗闇を超越している。
マインドをどう使うかは、至高の人格を瞑想すること〜神様、マスター、グルジならどうするかな、ということを考えるのが良さそう。
動画の文字起こし
私たちはまだマインドの能力をフルに引き出せていません。
大抵、普通の人はマインドの5%しか使っていないと言われます。つまり、マインドの95%は休眠状態にあるのです。
想像してみてください。もしその95%、いや、たとえ2%でも目覚めたら、どれほど素晴らしいことが可能になるでしょうか。
彼らはマインドを使って多くのことを考え、素晴らしいアイデアを持っていますが、何も成し遂げていません。
それでも、立派なマインドがあり、潜在能力があります。素晴らしい思考パターンを持つ人もいますが、外側の世界で行うことすべてに成功を収めているわけではありません。
素晴らしい思考パターンを持つ人は、そのアイデアを自分では実行せずに他者に任せます。これが彼らの知性です。
では、私たちはどうしているでしょうか?
マインドを使い、非常に利己的な性質を中心にしてこう言います──
「私はこれが欲しい」
「私はあれを達成したい」
「私はこれがしたい」
「私はあれがしたい」…
この「私」を膨れ上がらせているのです。
そして、私たちは「この“私”が誰なのかさえ知らない」状態にあります。
そのような状況で、マインドを形にしようとし、すべてを手に入れたいと思うのです。
大きな家が欲しい、大きな車が欲しい、大きなバンガローを持ちたい。
素敵な人が欲しい、夫、妻、子供──何もかも手に入れたい。
それはすべて、「私」という感覚によって引き起こされます。
霊性の道においても同じことが起こります。
透視力が欲しい、霊聴力が欲しい、あるいはビジョンを見たい──
そうした願望は、常に「私」という個人に重きを置いています。
「私はこれが欲しい」「私はあれが欲しい」──それは私の要求なのです。
利己的なマインドに支配されています。
なぜなら、マインドには力があるからです。
それは「信じ込ませる力」を持っています。
この世界のことをすべて現実だと思い込ませてしまう。
しかし、遅かれ早かれ、「死」がすべてを取り去っていくのです。
私たちは健康について話します。健康でありたいと思います。
もちろん、マインドは健康にとって非常に重要です。
マインドが健全であれば、肉体も健全になります。
何ごとも健全に受け取ることができるようになります。
では、私たちの考え方は健全でしょうか?
周りを見てください。
周囲の多くのものによって、マインドは汚染されています。
どこを見ても、マインドは囚われてしまいます。
外の世界には魅力的なものがたくさんあり、マインドはそれを掴んで「それがなければ幸せになれない」と思わせてきます。
宣伝広告を見てごらんなさい──
「これら全部、必要ですか?」
自分の人生を見てごらんなさい──
何度もこう思ったことでしょう。「あれが必要だ」「これが必要だ」と。
家の中は物で溢れかえっています。
「あれがないと」「これがないと」と思っていますが、本当に必要でしょうか?
少しの間だけ使い、その後は忘れてしまう──
マインドに「必要だ」と指示されて、それが必要だと「思わされて」いるのです。
どのように、何事もマインドの指示に従っているかが、わかるはずです。
「飛びたい、飛びたい、飛ぶんだ」と言っただけで飛べるわけではありません。
同様に、「牛になりたい」と言っても頭に角が生えてくるわけではありません。
そういうことなのです。
霊性の道では「マインドを使う」と言います。
マインドはあなたの一部であり、非難すべきものではありません。
なぜなら、マインドを通してしか人生のゴールに到達できないからです。
バガヴァーン・クリシュナが、バガヴァッド・ギーターの中でこう言っています:
「コントロールされたマインドは、正しい方向、正しいことに焦点を定められている。
外の世界に散漫しておらず、何が起ころうともその焦点は定まっている。
そのようなマインドは、あなたの親友である。」
不安定なマインド──常に飛び回っているマインド──
そのようなマインドは、あなたの敵になります。
あなたはいくつマインドを持っていますか? 一つだけです。
バガヴァーンはすべてを一対で創られました。
目も、鼻も、口も二つに分かれています。片方で食べられなくてももう片方で食べられる。
体も左右に分かれています。
でも、マインドは一つしか与えられていません。
幸いなことです。もしマインドが二つあったら、どれほど厄介だったことでしょう。
神にこう言うかもしれません──
「バガヴァーン、一つのマインドはあなたに捧げます。もう一つでは何でも好きなことをします」…と。
一つのマインドですでに、エゴには限界がありません。
何をするにしても、あなたはマインドに指図されています。
そのマインドによって不健康になっているのです。
だからこそ、霊性の道では「健康」について別の側面から話します。
健康とは、「意識」を意味しているのです。
健康なのは──
シュリー・ハリ・ナーラーヤナのディヴォーティです。
マインドが正しい方向に集中しているディヴォーティです。
これは外側の健康ではなく、内側の健康です。
あなたの意識が健康なとき──
意識はアートマの延長です。そしてそれは不滅です。
瞑想をしているとき、ジャパ(マントラの反復)をしているとき、
マインドを方向転換させているのです。
限界あるものから無限なるものへと、
「私」を取り除き、神──至高の存在に、マインドを集中させているのです。
そこには落とし穴があります。
私たちはマインドで知っていること──物質的なもの、形あるもの、支配できるもの──そうしたものに惹かれます。
マインドは私たちに「これを支配しろ」「これを所有しろ」と指示してきます。
エゴは支配ゲームを好み、所有欲を駆り立て、私たちはそのゲームにのめり込んでいきます。
そうしてエゴはどんどん膨れ上がっていくのです。
しかし、霊性の道ではこう言います──
「ダメだ。マインドをコントロールしなさい。」
バガヴァーン・クリシュナも言っています:「マインドをコントロールせよ」と。
バガヴァッド・ギーター全体を通して、彼は84回以上この言葉を繰り返しています:
「マインドをコントロールしなさい。」
なぜそれほど強調するのでしょうか?
その言葉を聞くと、何が起こりますか?
不安になります。
マインドをコントロールせよ、と言われた瞬間、
不安が目覚めるのです。
けれども、その不安は決して悪いものではありません。
その不安が、私たちに何かをもたらしてくれるのです。
それは──自由の状態、マインドをコントロールした状態です。
マインドがあなたを支配している限り、あなたはマインドのゲームをし続けることになります。
そのとき、あなたは依然としてエゴの中にいます。
たとえ表面的には威厳があり、落ち着いて見えたとしても、
その奥には空虚さがあるのです。
しかし──完全に神聖な意識に浸っているとき、
それこそが、あなたの現実になるのです。
初めは、マインドは抵抗するでしょう。
それが「不安」と言われる理由です。
マインドには、それが理解できません。
そして、理解しようともしません。
誰がエゴを失いたいと思うでしょうか?
たぶん、あなたも「そんな愚かなことはしたくない」と思うかもしれません。
だからこそ、私たちは霊性の道を歩むのです。
そして、その中で、マインドでは理解しきれないものを見つけていきます。
ここで、美しい話を一つ思い出しました──
マインドは必要なものです。
なければ何もできません。
マインドが悪いものだと、よく人は言います。
でもマインドは悪くありません。
神は「悪いもの」など、何も創造していません。
神が与えた道具をどう使うか──それは私たち次第なのです。
ナイフは、野菜を切るためにも、人を殺すためにも使えます。
道具をどう使うか、です。
マインドもまた、道具です。どう使うかが問われるのです。
あるとき、裁判官が車に乗っていました。
道沿いを走っていると、ぬかるみにはまって動けない犬が見えました。
人々は通り過ぎていきます。誰も気に留めません。
見るだけで、ただ通り過ぎていきます。
裁判官はそれを見て、運転手に「車を止めてください」と言います。
彼は車を降り、犬のそばまで行って、かがみ込み、泥の中からその犬を抱き上げ、かたわらに下ろしました。
さて──犬は水から出たとき、どうしますか?
ブルブルっと体を震わせて、水を払いますね。
犬が体を震わせると、その泥がすっかり裁判官の服にかかりました。
その瞬間、彼は平然として落ち着いていました。
そしてそのまま車に乗り、裁判所へ向かいました。
着替えるために家に帰ることもしませんでした。
裁判所に着くと、服は泥だらけ。
みんなが気づきましたが、誰も何も言いませんでした。
けれども、彼は何か違っていました。
彼からは輝きが放たれていたのです。
何か喜びが伝わってきました。
同僚たちは尋ねました──
「どうしたのですか? なぜそんなに泥がついているのですか?」
彼はこう答えました:
「今日は心が洗われました。」
これは本当に美しい話です。
私たちは「私」に、とても夢中になっています。
「私を見て」「私の持ち物を見て」──
何をするにも、それを人に見せなければいけないと思い込んでいます。
でも一度、自分自身に向き合い、自分を見つめなければなりません。
自問してください──
「私は自分に誠実だろうか?」
私たちは踊っています。
常にエゴのゲームを踊っているのです。
マインドに指示されたことを、そのままやっているのです。
しかし私たちは、霊性の道を歩んでいます。
私たちにとっては、何をしていても、それを理解していようといまいと、
マインドはバガヴァーンにあるべきなのです。
そして、エゴがすっかり忘れ去られた境地に到達しなければなりません。
踊ったことがありますか?
踊っているとき、あなたには何が起こっているでしょうか?
最初は恥ずかしさがあります。
けれども、ひとたびそのダンスに夢中になり、流れに乗ると、
「踊っている人」は消えてしまいます。
残っているのは、「ダンス」だけです。
ディヴォーティがバジャンを歌っているのを見たことがありますか?
ただ観察してみてください。
そこには、大きな喜びがあります。
最初はもちろん、「私を見てほしい」「なんと美しい声だろう」「上手く歌えている」と思うかもしれません。
でも、ある地点に達すると、「歌い手」がもう存在しなくなります。
バジャンだけが存在するのです。
これが美しさなのです。
そのとき、「私」はもはや存在せず、実在だけが存在するのです。